日本とロシアの間に横たわる北方領土問題は、第2次世界大戦後に始まったわけではありません。

両国の国境線をめぐる攻防は、歴史が江戸幕府末期のころにまでさかのぼり、

古くから『北方四島』をはじめ、樺太、千島列島を含めた広範な地域でのせめぎ合いが続いていました。

歴史上、樺太と千島列島はロシア領であることが確定しているので、現在、北方領土と言えば北方四島を指し示しています。

北方領土問題の歴史をわかりやすく説明するためには、まず、この北方四島がどこにあるのかを知っておいてもらう必要があります。

北方領土

出典:外務省ホームページ(https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html)

北海道根室半島の納沙布岬沖3.7kmに歯舞群島(はぼまいぐんとう)があり、

その北東に色丹島(しこたんとう)、その西に位置する国後島(くなしりとう)

さらに北東にある択捉島(えとろふとう)北方四島と言い、その先は千島列島のウルップ島でロシア領になります。

合計面積約5000平方kmですから、千葉県とほぼ同じです。

現在はロシアが施政権を持っているので、サハリン州に属し、約1万7000人ロシア人が居住しています。

目次

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北方領土問題の歴史を簡単にわかりやすく解説! 歴史年表付

北方領土問題とは? 歴史を簡単にわかりやすく解説

北方領土問題の歴史を解説することは、わかりやすく言い換えれば、

日本とソ連、あるいは日本とロシアの二国間交渉の歴史をたどることでもあります。

日本政府は、『北方四島北端の択捉島と千島列島ウルップ島の間に国境線を置く』とした江戸幕府とロシア帝国の日魯通好条約を根拠に、北方四島は日本領であると主張しています。

明治になって、それまで両国混住であった樺太を日本が放棄し、千島列島を譲り受けましたが、

択捉・ウルップ間の国境線がなくなったことが、のちの時代の紛糾の一因にもなりました。

北方領土問題の歴史をわかりやすく解説:1945年

第2次世界大戦中の昭和20(1945)年、イギリス、アメリカ、フランス、ソ連によるヤルタ協定で、

対日参戦を条件に、ソ連に南樺太と千島列島を引き渡すことが決められました。

そして、ソ連は日ソ中立条約があるにもかかわらず、同年8月、日本のポツダム宣言受諾、大戦終結後に満州、千島列島へ侵攻し、北方四島までを占領しました。

四島の日本国民は全財産を奪われ、命からがら北海道に逃げ帰りましたが、

先祖の墓地は四島に残したため、墓参りは後に実現する北方領土墓参や自由訪問まで待たなくてはなりませんでした。

北方領土問題の歴史をわかりやすく解説:1951年

やがて、東西冷戦の始まる昭和26(1951)年、日本はサンフランシスコ平和条約を締結、千島列島の放棄が決まったものの、ソ連はこの条約に署名していません。

つまり千島列島の放棄とは、それ以南の北方四島は日本領であるという解釈も成り立ちますが、ソ連が認めないうちは北方四島の占領は続くことになります。

この時の日本政府は、択捉島、国後島は千島列島に含まれ(放棄対象)、歯舞群島、色丹島は北海道の一部で日本領であるという見解で、これをもとにした『二島返還論』でソ連と平和条約締結へ向け、交渉を開始しています。

またソ連側も択捉島と国後島の『二島譲渡』と解釈し、いったん交渉はまとまりかけましたが、日本側が突然、主張を転換して四島ともに日本領と主張したため、交渉は決裂してしまいました。

その後の交渉は、米ソの対立に大きく影響され、日米安保条約が延長されると、ソ連が領土問題は解決済みと主張、交渉は後退を余儀なくされました。

日本も北方四島の一括返還がない限り、平和条約の締結はできないという立場で、この政府見解は今日まで維持されています。

北方領土問題の歴史をわかりやすく解説:1980~1990年代

1980年代後半に、ペレストロイカ(政治改革)を提唱するゴルバチョフ大統領の就任で、ソ連側の姿勢が軟化し、日ソ共同声明に領土問題の存在が明記されました。

平成3(1991)年、ソ連が崩壊し、新生ロシアのエリツィン大統領は日本との経済関係を重視、細川内閣、橋本内閣との間の返還交渉は順調に進展しました。

そして、平成10(1998)年には、択捉島とウルップ島の間に国境線、当面四島の現状は変えない、

ロシアの施政を合法と認めるといった案を日本側が提示し、エリツィン大統領もサインしかけましたが、

側近に制止され歴史を変える大きなチャンスを逃したと、後になって同席していた日本政府高官が語っています。

両国ともトップが代わり、プーチン大統領が再び歯舞・色丹の二島返還を先行させ、

あとの二島はその後の交渉の結果次第、という提案をしましたが、

日本国内では二島返還だけで終わるのではないかとの世論が優勢で、ここでもまた交渉は暗礁に乗り上げています。

その後も、国際会議などの機会をとらえて、首脳同士の話し合いも続けられていましたが、北方領土解決が先とする日本と、平和条約締結後に返還交渉というロシアとは平行線をたどったままでした。

北方領土問題の歴史をわかりやすく解説:2018年

平成30(2018)年秋、返還交渉の歴史に残るような『事件』が発生しました。

ウラジオストクで開催された東方経済フォーラムでの安倍首相「戦後70年の長きにわたり、平和条約が締結されていないのは異常な状態だという思いにおいて、私とプーチン大統領は一致している」という挨拶を受けて、

プーチン大統領は平和条約を前提条件なしに年内に締結しようと、壇上で安倍首相に呼びかけました。

あまりに唐突な提案で、首相も反応できずにいたようですが、この瞬間に返還の成否は日本側に委ねられたとも言え、以後、大統領の真意を測る報道、憶測が飛び交いました。

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北方領土問題の歴史年表

北方領土問題の歴史をわかりやすく年表にまとめてみました。

和暦西暦【北方領土問題歴史年表】【補足事項をわかりやすく】
安政元年1855日魯通好条約(下田条約)、初めて両国の国境が画定択捉島と千島列島南端のウルップ島の択捉海峡が国境線、樺太は両国混住とする。「魯」の表記は江戸幕府が魯西亜としていた名残で、魯は愚を意味するため、ロシアからの抗議で、以後、露を使用
明治8年1875樺太千島交換条約、日本は千島列島を譲り受け、樺太全島を放棄千島列島とはウルップ島以北の18の島を言い、北方四島は含まれない
明治38年1905ポーツマス条約(日露講和条約)、ロシアから南樺太を譲り受ける南樺太割譲は、アメリカの斡旋による日露戦争終結の最低ラインの条件で、賠償金はなかった
大正6年1917ロシア帝国崩壊、ソビエト連邦樹立
昭和16年1941日ソ中立条約(日ソ不可侵条約とも言われる)1945年4月5日にソ連が条約破棄を通告したが、失効は1年後なので条約は翌年4月24日まで有効
昭和20年1945(2月11日)英、米、仏、ソによるヤルタ協定ヤルタ協定は2次大戦終結後の賠償や独の管理などを取り決めたもので、その中にソ連の対日参戦の交換条件として、南樺太と千島列島をソ連に引き渡すという項目があった
(8月8日)ソ連、対日宣戦布告
(8月9日)ソ連、満州で攻撃開始日ソ中立条約の一方的破棄
(8月14日)日本、ポツダム宣言を受諾
(8月15日)第2次世界大戦終結
(8月18日)ソ連軍、千島列島へ侵攻開始31日までに千島列島全島を占領、翌月5日には北方四島を完全不法占拠
(12月1日)根室町長がマッカーサーに四島返還の陳情これが北方領土返還要求運動の始まりとされている
昭和21年1946ソ連が南樺太、千島列島、北方四島の国有化を宣言
昭和22年1947北海道議会が北方四島返還の請願を決議、マッカーサーに提出これが全国の自治体での返還要求決議第1号
昭和25年1950千島及び歯舞諸島返還懇請同盟設立現・社団法人北方領土復帰期成同盟
昭和26年1951サンフランシスコ平和条約日本は南樺太と千島列島を放棄(北方四島は千島列島に含まれず)、ソ連は調印せず
昭和31年1956日ソ共同宣言ソ連、平和条約締結後に歯舞群島、色丹島の引き渡しに同意、国交回復
昭和39年1964初の北方領土墓参水晶島(歯舞群島)、色丹島
昭和40年1965北方領土返還要求署名運動開始
昭和48年1973日ソ共同声明(田中・ブレジネフ)平和条約締結のための交渉継続を確認
昭和51年1976北方領土墓参中止ソ連が墓参者のビザ取得を要求(ビザ取得は四島がソ連領土と認めることになるため)
昭和56年1981日本政府が2月7日を「北方領土の日」と閣議決定、現職首相(鈴木)が初の北方領土視察2月7日は日魯通好条約締結日
昭和61年198611年ぶりに北方領土墓参再開
平成2年1990ヒューストンG7で初めて北方領土問題が議題に「早期解決を支持する」との議長声明
平成3年1991日ソ共同声明(海部・ゴルバチョフ)「北方四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象である」と、ソ連が初めて文書で認める。 ソ連が日本国民と四島のソ連住民の交流を提案
ソ連崩壊、新生ロシア誕生
平成4年1992北方四島交流事業開始パスポート・ビザ不要
平成5年1993東京宣言(細川・エリツィン)北方四島の島名を明記し、帰属に関する諸問題を歴史的・法的事実に基づいて解決することを合意
平成9年1997クラスノヤルスク合意東京宣言に基づき2000年までに平和条約の締結を確認
平成10年1998北方四島周辺水域での日本漁船操業開始
川奈合意、モスクワ宣言四島返還実現の最大のチャンスを逃す
平成11年1999北方四島への自由訪問開始元島民と家族の故郷への訪問手続きが最大限簡素化
平成13年2001イルクーツク声明(森・プーチン)顔ぶれ変更による東京宣言の確認
平成15年2003日露行動計画を採択(小泉・プーチン)顔ぶれ変更による東京宣言の確認
平成30年2018プーチン大統領が平和条約の年内締結を突如提案安倍首相に対しウラジオストクのフォーラム檀上で

北方領土返還のメリットは?

北方領土が返還された場合、現在想定されているメリットは、漁業、資源、観光といったところでしょうか。

なんと言っても、サケ、マス、カニ、タラなどの豊富な水産資源が魅力で、たとえ歯舞・色丹の二島返還であっても、200カイリ排他的経済水域の拡大効果は大きく、漁業者の期待はこの点に集約されています。

このため漁業関係者には二島先行返還論の支持者が多いと言われます。

鉱物資源も豊富で、択捉島では希少金属であるパラジウムやレニウム、硫黄、チタン、金、銀、鉛の鉱脈が確認されていて、国後島には50トンもの金鉱の報告がなされています。また大量の石油、天然ガスの埋蔵をロシアが確認しています。

択捉島には火山があるので温泉が湧き出ます。

これは有力な観光資源になりますが、最初のうちはにぎわっても、北方四島ならではの目玉がなければ、これはちょっと疑問符が付きますね。それに乱開発による貴重な生態系の破壊も心配です。

また経済面とは別に、四島が日本国内となれば自由に行き来できるので、墓参りも現在より容易になりますが、元島民も減っているのでメリットとまで言えるのかどうか。

別荘地としても、手前に広い北海道もあることから、四島の不動産にそれほど需要が高まるものか、こちらも期待感を持てません。

それに、返還されたからといって、生活基盤のある現住ロシア人を島外に移住させることを両政府が簡単にできるはずもなく、どういう社会になるのか不安もあって、やはり一番のメリットは水産・鉱物資源になると思われます。

北方領土問題の日本とロシアの4つの主張内容とは?

北方領土返還交渉は、日本の主張とロシアの主張が当然ながら異なっているため、一進一退の状況が続いています。

水面下でどんな細かい対立があるのかは知る由もありませんが、明確に表に出ている主張の違いをわかりやすく4つの観点でまとめました。

現在言われる北方領土問題は、第2次大戦終結直後のソ連による不法占拠以後のことなので、相互の主張もそれ以降のもので、両国の主張も時期によってブレてもいます。

北方領土問題の日本とロシアの主張1:千島列島の範囲

日魯通好条約以降、国境線がウルップ島以南に下がったことがないため、北方四島は今日まで日本領土であるというのが日本の主張です。

しかし、ロシアの主張はヤルタ協定による取り決めで、国際的に北方四島はロシアの主権が認められているとしていますが、これは強弁に近く、そのためにロシアの姿勢が政権によってブレることにもつながっているようです。

北方領土問題の日本とロシアの主張2:優先順位

サンフランシスコ平和条約締結後の二島返還論を放棄後の日本政府は、四島一括返還後でなければ日ソ間の平和条約締結は困難との姿勢で一貫していますが、

最近のロシアは平和条約締結後に、歯舞・色丹を引き渡すとし、択捉・国後はその後に交渉するとしています。

この点から、ロシアは平和条約を急ぎ、日本は四島返還を重視していることがわかりやすく見えてきます。

ガマン比べにも思えますが、平和条約による日本からの経済協力を必要とするロシアの事情もまた透けて見えるので、日本政府の外交力がここでも試されることになります。

北方領土問題の日本とロシアの主張3:表現

日本は四島ともに日本領土との主張ですから、当然『返還』としていますが、ロシアは『引き渡し』としています。

歯舞・色丹の引き渡しに合意した日ソ共同宣言だけが法的拘束力を持つというのがロシアの主張で、

しかも引き渡しとは、島は渡しても『主権』の引き渡しまでは意味しないという解釈だと思われます。

さらに択捉・国後は対象外という主張ですから、これが二島返還論の最大の障害となっています。

返還と言わずに引き渡しとの表現をする理由を、ロシア政府はもっとわかりやすく説明してほしいものです。

北方領土問題の日本とロシアの主張4:軍事

2018年、択捉島に戦闘機が配備され、北方四島の軍備強化が進んでいます。

もちろん日本政府は抗議しましたが相手にされていません。

ロシアからすれば、四島返還後の米軍基地の設置は軍事脅威であり、安倍首相の「四島に米軍基地は置かない」という発言は、日米関係を考えれば信用されるはずもなく、

また、返還による艦船の航行に制限がかかり、作戦行動が丸見えになるなど、極東海軍に支障が生じるために、これはかなり大きな返還ネックと言えます。

北方領土問題の解決は時間がかかりそう

領土のない国家は成立し得ません。

ヨーロッパでは領土拡大のために長らく戦争が絶えず、多くの犠牲が生まれ続けた歴史があります。

近年でも牧草地しかないようなフォークランド諸島のために、イギリスははるばる大西洋の端まで海軍を動員して3か月間の戦争となりました(紛争とする記述もある)。

他国と陸の国境線を多く持つロシアと、四方が海の日本とは領土に対する認識、思い入れに大きな差があります。

また、軍事力・経済力を持ってこその外交であって、理論や法、国際世論の力が極めて小さいことは多くの歴史が証明しています。

わかりやすく最近の例を挙げれば、ロシアによるクリミア併合です。

実効支配してしまえば、いくら国際非難が高まろうと何の役にも立ちません。

北方四島の返還交渉の過程をたどれば、ソ連・ロシア政府の前向きな姿勢を見せられるたびに、日本は莫大な経済協力を引き出されてきました。

北方領土問題解決の最大のカギは、わかりやすく言うなら、日本がいくらまでカネを払えるかにかかっているとの見方も、あながち見当違いとは言えません。

わかりやすく説明したつもりですが、外交交渉は表立って公表されないので、まだまだ水面下の駆け引きが隠されているのかもしれません。

国際政治、外交交渉、報道発表、そして新聞ももっとわかりやすく記事を書いてくれれば、両国国民の論議も盛んとなって、平和的な解決策を見出すことができるのだと思います。

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